「結論」を出す仕組み?

「議論ばかりではなく結論を出せ」と言った人がいたそうだけど、そこだけは違和感がものすごく大きくあります。

寄席(よせ)に行ったことありますか。テレビの「笑点」でもいいや。そこで、「今はこういう笑いが一番面白いということでよろしいか」という結論を出すのってありえない、そういう感じなんですよ。

このサミットではすでにそれぞれのトピックでそれぞれの論客の「結論」が持ち込まれていて、それはディスカッションでさらに揉まれて発展したり評価されたりしているのをライブでシェアしているのであって。だから、「結論」って何よと考えるのは自分の仕事。その場で全員が納得するような「こうだよね」なんてきっと、とっても気持ち悪い。

パネリストにせよ来場者にせよ、むしろそれを見た各々が自分で、自ら集約していかなきゃいけない部分を取り上げちゃいけないのではないかなと思います。山崎晴可さん曰く、その発言と感想の自由度を最大にしていることがここの価値なのだと。

そういう意味で、メディアは「出さなきゃ」と思って苦労してレポート出してくださってる。それに触発されてでもいいから、それぞれが感想をブログに書いて咀嚼を進めることがいいと思います。

要は「理解の言語化」によって、大勢の中での何より大切な「自分」を考えられる。ここ、大事だと思うんですよ。結果、それを読む人も書く人も「結論」に近いものを自分の中に残ったかどうかを考える機会をシェアできるのだと思います。で、それは拡散していて独立性もあるわけでネット上に分散するわけだから、今度はそれを読んだ人がそれなりに考えて自分の中で集約し、、、と続きます。

もう一回書きますけど、だから、この関係って上昇的にループするんですよ。